ヤシ廃材をアップサイクルし、
母国マレーシアと日本をつなぐ
架け橋になりたい。
技術企画 モハマド エルマン
「工学に優れた大学で研究したくて、日本に留学しました。仙台市にある学校を選んだのは、雪を見てみたかったからです」。少しはにかみながら、エルマンは語った。母国マレーシアでは1980年代以降、日本や韓国の近代化を学び国の発展につなげようとする「Look East Policy」が提唱され、日本へ多くの留学生を派遣している。2008年に来日したエルマンも、そのひとり。太陽電池を研究し、将来、母国のエネルギー施策に貢献することを夢見て来日した。
エルマンが大学で研究したのは未来型「量子ドット太陽電池」。最先端の微細加工技術を駆使して高密度の量子ドットを形成し、サイズも制御するものだ。広範囲の波長の光を取り込め、エネルギー吸収率は飛躍的に向上する。日々、時が経つのも忘れるほど研究に没頭していたエルマンだったが、3年次が終わろうとしていた3月半ば、人生の転機になる出来事が起きた。東日本大震災だ。たまたま上京していたエルマンだが、東京でも震度5を記録した激しい揺れに驚き、被災状況を伝えるニュースは衝撃だった。「大学のある仙台は大丈夫か? 連絡がつかない友人たちは無事か? 帰るに帰れず、不安を抱え知人宅で過ごしました」。仙台に辿り着くことができたのは震災から1カ月後。アパートは半壊状態だったが住むことはでき、友人たちも奇跡的に無事だった。
ライフラインは徐々に復旧していったが、帰国する留学生は少なくなかった。しかし、エルマンは仙台に留まることを選んだ。「雪は冷たかったけれど、復興をめざして助け合う人々の心は温かかった。何より太陽光エネルギーの重要性を痛感しました」。大学院に進学してからは研究を深め、従来のシリコン以外の材料も試して量子ドット太陽電池の実現に成功。修士論文にまとめ上げることができた。その頃、エルマンは就職も日本でめざそうと考えていた。マレーシアからの留学生の多くは母国で就職するのでレアケースだ。就職先に絞ったのはパナソニック。太陽電池分野でのポテンシャルが高く、当時マレーシアにもソーラーパネルの工場を持っていた。学んだ日本への恩返しになる。母国への貢献にも直結すると思った。
エルマンが配属されたのは、もちろん太陽電池の研究・開発部門だ。入社早々、マレーシア工場にも出向き、製造ラインの歩留まり向上の改善を推進。母国へ貢献の一歩を踏み出すことができた。その後、ニューヨークの工場での設備立ち上げや、大学の専攻を活かして空間除菌脱臭装置の電極開発も経験。日本やマレーシアをはじめ、アメリカや台湾などさまざまな国や地域の方と働く機会を得た。「文化や習慣が異なることで苦労したこともありましたが、相手を理解し、粘り強くコミュニケーションを重ねることで一つひとつ解決していきました」。入社して培った丁寧なコミュニケーションは、エルマンの信条になった。
仕事にもすっかり慣れた頃、興味深いプロジェクトが立ち上げられた。マレーシアと日本が連携するプロジェクトで、アブラヤシ廃材を活用して「繊維ボード」を開発しようというもの。エルマンにうってつけだった。さっそく打診し、技術企画として参画することになった。アブラヤシはマレーシアを中心に栽培され、採取されたパーム油は食用油や洗剤になる。だが収穫を終えて伐採された廃材は農園内に放置され、腐敗時に大量の温室効果ガスが発生して問題視されている。廃材活用は環境負荷を削減し、木材資源の代替品としての価値も大きい。
とはいえアブラヤシ廃材は水分や不純物を多く含み、活用が困難とされていた。そこで不純物を洗浄除去し、繊維を圧縮成形。ペレット状に中間材化し、品質の安定した繊維ボードへアップサイクルすることに成功した。しかし課題は残った。廃材をいかに安定・安価で調達するか。いかに最適な事業パートナーを選定するか。コロナ禍で渡航もできない。オンライン会議では相手先のニュアンスをつかみづらい。そんな苦境を、エルマンは打破した。政府機関「マレーシアパームオイル庁」との連携だ。課題クリアへ、出口が見えてきた。「廃材の発生時期や量など信頼できる情報を入手でき、データベースを構築中。理想的なサプライヤーも確保できそうです」。丁寧なコミュニケーションが、プロジェクトを動かした。
舞台は整った。現在「繊維ボード」は家具メーカーと協働で商品化が進められ、販売に向けて事業検証がスタート。世界市場への展開も視野に入れられている。「『太陽電池』から担当は変わりましたが、同じSDGsへの取り組み。母国でもアブラヤシ農園の資源循環を促進でき、パーム油産業の持続的発展に貢献できることも嬉しいです」。エルマンが描いたマレーシアと日本の架け橋は、未来へつながっている。